第11話「もう生きているのに」 

「生むの?」「生まないの?」

と聞こえてくる。

わたしのことを話している。

どう決まるのかな。

ママは生みたいと言っている。

パパは

「もう少し先でもいいんじゃないか」

と言う。

二人共ずいぶん冷静なんだな。わたしはもう生きているのに!

殺すか、生かすかの話を聞いているわたしの気持ちをパパとママは知っているのかしら。

「三つ子の魂百まで」という言葉が昔からある。

子供は3歳までに親孝行をするともいう。その位可愛い時期で親だけを頼りしがみついてくるのだ。

だが、それより前、母親のおなかの中にいるとき、すでにお金とかかわりのある日々を過ごしていることを忘れてはならない。

どこの国でいつの時代にどの家に生まれるか、それで小さな命の行方が決まってしまう。

どの命も同じ筈なのに、祝福され愛される命、道ばたで寝る運命の命。誰も看取ってくれない汚れた暗がりで消えゆく命。人の運命とは何なのだろう。

全ての人間に一日は24時間与えられている。その時間は、一瞬の時も、一秒さえも戻せない。止めることすら出来ない。

「しまった」と思っても遅い。時は大切だ。かけがえのないものだ。

「私は予想外」

「だって、あなたの子よ。生みたいのは当然でしょう。

私ももう35歳よ、これが最後かもしれない。反対されても生むわ」

ママの叫ぶような声。

「だけど、俺はもう少しやりたいことがあるし、君が子供を生んで働けなくなると、俺の給料だけじゃ今の生活は維持できないし、自由な時間もとれないだろう」

パパの情けない答え。2人で働いていたこの10年間に、どうして私ひとり生んで学校に行かせる位の貯金を作らなかったの?

2人で海外旅行、趣味やおしゃれにお金を使って、「人生は楽しまなくっちゃ」等と言って、いざ、子供が出来たとなったら、情けない泣き言と、未練な話。

この家にこれから生まれるかもしれない私はどうなるの。結婚したときから、子供が出来る事は2人の人生設計に入っていたのではないの?

それとも、私は2人にとってまったく予想外だったの。

そうだったら、欲望に負けて子供が出来てしまったなどと言い訳せずに、私の命を宿す前に、2人で私の命が生まれるのを防いでおくべきだったんじゃないのですか。

「パパ、ちがうよ」

パパの経営していた会社が倒産する。

「自分の作った会社だ。つぶれたからといって、誰に文句を言われることはない」

とヤケになったパパは言います。

でも、

「パパ、ちがうよ」

パパの夢のためにママはいっぱい我慢をしていたよ。私もほしいものがあったけど我慢をしたよ。

「パパの会社はなくなる。一文無しになってしまってごめんね。でも、もう一回、一から出直すから許してくれ。ママや、お前にも苦労をかけると思うけど」

パパがそう言ってくれたら、ママも、私も胸をはってパパに言うよ。

「大丈夫だよ、パパ。パパなら必ずやれるよ。みんなでがんばろう。ママも私もパパが大好きだって事は変わらないよ!」

「取り立て」

「それは明日の子供の病院の費用なのよ」

「悪いな」

暗いパパの声。

「これっぽちか、もっとあるだろう」

若い男の声。

「いいか、明日必ず銀行に振り込んでおけよ。そうじゃないと明日また来るからな」

別の男が言う。

バタン、ドアが閉まる。ママが私のところへ走ってきて抱いた。ママの涙が私の顔にポタポタ落ちる。あったかい。

「ママ、わたし早く大きくなってきっと助けてあげる。だから待ってて、がんばって」

「捨てられる」

真夜中、ひそひそとパパとママの声が聞こえる。

「施設の前に置いてくれば誰かが育ててくれるだろう」

「それじゃあんまりよ、あの子も連れていきましょう」

「連れていけるわけないだろう。二人でどこかの町で住み込みかなんかで働くしかないよ。俺はもう決めたんだ」

パパ、ママ、ボクを置いていかないで、ボクはあと2年もたったら迷惑をかけないよう、トイレも食事も自分でするからあと2年だけがんばって、置いていかないで、と泣いた。

「ほら、ああやって泣いているんだ。あれじゃあ連れていくわけにはいかねえよ」

「だって、あんた!」

ふすまが開いた。ママが立っている。ママはジーッとボクを見ている。そしてボクを抱いた。強く、強く!ああ、ボクは捨てられちゃう。

「ママ、2年だけ、いえ、1年でもいい、そばに置いて!」

だって顔を忘れちゃうよ。いつかどこかで出会えた時どうするの?

「幼子へのお金教育とは」

私は数年前、将来物価が上がる。今の若者達が結婚して家族を持つ頃は大変だな、と家族や友人と話したことがある。

まだスーパーの商品やファストフードなどが値を下げようと血の出るような努力をしている頃だから、周囲には「へぇー」という顔をされた。

では、なぜ私はそう感じたのか。理由はひとつある。

ブラジルで大豆やトウモロコシを利用して、ガソリンの代わりにと製造し始めたバイオエネルギーがニュースになったのを見たからだ。

私は愕然とした。

「人間はついに神の領域に手を入れたか」

確かに10年後の石油産出の状況を考えればエタノールは必要なものには違いないし、二酸化炭素の排出がないことを考えれば、それを製造し自国で使用するだけでなく、輸出出来る国になることは経済の豊かさを手に入れるための有効な手段であることはわかる。

ブラジルはたくさんの貧しい国民を抱えている。そういうことからいえば、広い国土を利用した食料をガソリン代わりにするのは適してはいる。

だが、地球上に住む65億人以上の半数近くが満足な食事も出来ず、安全な飲み水さえ手に入らない状況なのに、主食となる大豆・トウモロコシなどを足代わりの液体にしてしまっていいとは思わない。

個人個人は平和を望んでいるのにも関わらず、地球上で何千年も戦争がなくなることがないように、この人間の傲慢さは行くところまで行くはずだ。その結果どうなるか、想像は簡単につく。

天才科学者アインシュタインは、第2次世界大戦後直後のあるインタビューで、「第3次世界大戦が行われるとしたらどんな武器が使われると思いますか」という質問に、「それはわからない。でも、第4次世界大戦の武器なら分かる。石だよ」凄い先見の明だ。

だが、そう思ってもこの動きを止めることは出来ないのだ。そんな冷たく厳しい資本主義の世界で我が子が生きてゆかなければならない。

だから、未来を支える若い世代に早い内に資本主義の血管であるお金のことを正しく躾ける必要がある。

5年ほど前から子供にもお金の教育ということで、たくさんの本が出版された殆どはハウツー物だ。

それと平行して、マネープランナーと称する女性が中心に、子供達にゲームを使ったりしてお金の使い方や知識を学ばせたりしている。

中には、証券会社の手先のようなマネープランナーが、株式投資の指南までする始末だ。
確かに子供達に興味を持たせやすいだろう。

しかし、その前にそれぞれの子供の家庭に、誰が働いてどこからどんな形でお金が入ってくるか、という「入るを計りて出ずるを制する」の「入る」の部分と、心の在り方を教える事が基本だと思う。

私はお金のことと、心の在り方は一体の筈だと信じている。

それでは小さな子に何を、どうして教えるのだ。と疑問を持つ人も多い。お金の躾も礼儀・道徳と同じで、特別なことをするのではない。

朝は、「おはようございます」

夜は、「おやすみなさい」

食事の時は、「いただきます。ごちそうさま」

それを忘れない日常を送ることだ。

家庭の中でも気遣いをしたり、何かしてもらったら、「ありがとうございます」そして、感謝を忘れない。

夫婦でも親子でも、口げんかをしたり怒られたりして不愉快な時であっても、夜寝る前には「お休みなさい」と親から声を掛ける。

子供からの返事がなかったら名前を呼んで「○○お休みなさい」と言えば、小さな子は拗ねたような言い方でも「おやすみ」と言う。それで、次の朝は素直に「おはようございます」と言える。

親の方がふて腐れたり、まだ怒っているのを示すように挨拶をしないようでは子供の躾は出来ない。

家族で外食をしても、食事が終わった時椅子を元に戻す事をしていれば子供はやるようになる。それは店の仕事だ。金を払った上に馬鹿馬鹿しいと言う人もいる。

だが、疲れる事でも何でもない。それをして子供にもさせていれば記憶される。

レジで「ごちそうさま、おいしかったです」と気持ちよく挨拶をする。それを見て子供は覚える。いつの間にかごちそうさまでした、と言うはずだ。

「幼子の目」

日常の生活の中で、祖父母やお父さん、お母さんが自然体で見せることだ。特別見せてやろうと思わなくても、赤ん坊から3歳までの幼児にとって見る物は家族しかない。

もし、他人を見ることがあったとしても、そこには必ず親か祖父母がいる。難しいことをさせるのでもなければ、怒って命令することでもない。幼子には、親が手本を示すことだ。

親にとっても、疲れるほどの労力でもなければ、金のかかることでもない。周囲に対する気遣いや思いやり、それもほんの少しのことで充分なのだ。

3歳位までの子供はそれを見ている。そして真似をする。

「三つ子の魂百まで」という言葉もあり、次のような言葉もある。

「子供は3歳位までに親孝行をしてしまう」だから、生まれた時から3歳までは無限の可能性を持ったゴールデンタイムの日々だ。

幼子は大抵は普段子供用ベッドの中からいつも母親を目で追っている。台所で働く母親の姿、どんなテレビを番組を観ているのかどんな

音楽を聴いているのか、電話での会話や態度。集金人や宅配便の人たちへの応対もこんな小さな子には分かるはずがないと思って油断してはいけない。

良いことも、悪いことも、あの純粋な子供の目には砂漠に水が染みこむように瞬く間に入っていく。

外出をすれば乳母車の中から、自転車の後ろの席にしがみついて、お父さんやお母さんのやりとりを見ているのだ。

だから、昔から「親を見れば子供が分かる」と言われる。だが、現代は小学校に入る頃から、両親よりも、外部の情報が、

テレビ・ゲーム・インターネット・スマートフォン等、嵐のように降り注ぐ。子供の率直で汚れていない心には過酷過ぎる。それでも親はめげずに正しい道を躾けなければならない。

しかし、これは至難の技だ。だから生まれた時から3歳位までが重要な月日なのだ。
自分の愛する子供に育って欲しいと思うなら、次の条件は守らなければならない。

(1) 食事の時はテレビをつけない。
(2) 子供連れの買い物や支払いは出来るだけ現金を使う。
(3) 親がマナーを守り模範を示す。

「親のゴールデンタイム」

朝食の時間にニュースなどを観るのは、出勤するまでの時間もあるので番組によってはOKだ。しかし、母親は子供にミルクを飲ませながらテレビを観てはいけない。

「そんなの退屈よ」というのであれば、もう、子供の躾を放棄したことになる。子供の目を見てお乳をやり、子供と向き合って食事をする。

目を見て話しかける。赤ん坊だから分からないわ、とそっぽを向いて自分はテレビを観たり、週刊誌を開いたりしないで、真っ直ぐ子供の目を見て話しかける。そうして育った子供は相手を見て会話をすることが出来るようになる。

音楽は神経を逆撫でしない幼子の耳にもやさしい静かなものなら、食事の時にはむしろリラックスしていいと思う。

食事が済んでも子供の目につくところにテレビがあるなら、子供に見えないようにカーテンなどで仕切って音を絞る。

出来れば幼児には見せない。退屈だ、あの番組は観たいのだ等とわがままは言わない。観るなと言っているのではない。ビデオデッキも各家庭にあるはずだ。子供を寝かしつけた後でいくらでも観る

ことが出来る。その位のことが我慢出来ない親なら、将来子供にあれしろ、これしろ、これは我慢しなさい、無駄遣いをするな、などと言っても、自分がほんの少しの我慢すら出来ないことを子供にだけ守らせるのだから効果はない。

特に父親がいる時の夕食は絶対にテレビをつけてはいけない。「働いてきて疲れているんだ。テレビ位見せろ」と言ってもテレビは消す。父親と会話をする貴重な時間だ。

小児科医会の調査でも、小さな子供の見過ぎは対人関係に悪影響を及ぼすと分かっているのだ。

乳幼児100人の調査で、1日10時間以上テレビがついている家庭では目を合わせようとしても、目をそらす子供の割合が96,6%に達した。

0から3時間の家庭でも37,5%の子供が目をそらすのだ。その結果を見ても分かるはずだ。まして、お父さんがいる夕食は週に1度かもしれない。仮に毎日一緒に食べられる家庭といえども、夕食には会話をすること。

家で会話をする習慣がないと、中学生になった子供にいきなりお金の話でも、と言っても「どうせ無駄遣いするな、などとうるさいことを言うのだろう」と、相手にされない。

だから、0歳から目を見て話しかける。口のきけない赤ん坊でもテーブルで向かい合っていると、一緒におしゃべりしている気持ちになっているのが分かる。目をクリクリさせて楽しそうに夫婦の会話に参加している。

そんな時お金の話が出ていいのだ。電気代が高いとか、今年のボーナスは厳しそうだとか、話の内容は夫婦2人の時と同じでいいと思う。

お金の話に限らず、親がしっかりと道徳の基本を教えられるのは3歳位までだ。この位までは、パパ好き、ママ好きと無条件で甘えてくる。

ところが、4,5歳だとそうもいかない。保育園や幼稚園で友達が出来て社会が開ける。外の情報が増えると、そちらの情報を親が言うことより尊重しがちになる。

だから、母親のおなかにいる時から生まれて3歳になるまではあっという間に過ぎてしまう貴重な時間だ。油断してはいけない。

可愛がると同等の愛情を未来のプレゼントとして、躾けに注ぐべきだ。

第12話に続く

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