第15話 多重債務者の家族ファイルNO,2

多重債務者の家や会社を訪問した時、様々な場面に出くわす。

当人が留守の場合に家族が見せる言動は悲しみと凄まじさと、関係ないと開き直る人など百人百様だ。

しかし、何百という場面を思い出す時、どうしても忘れられない人達がいる。
私の50年近い金融業者としての日常で垣間見たこの人達は今頃どうしているだろうか。

「僕、高校へは行かない」

今、目の前にいる塩田夫婦は共に多重債務者になってしまっていた。背は高いのだが、面長で気の弱そうな夫の塩田幸男は、さっきから

「次の仕事の金が入れば払えるのだから」

と同じ言い訳ばかりをしていた。塩田は小さな信用組合の営業をしている。

年齢は45歳で万年平社員。酒好きで顧客の接待を受けているうちにキャバクラにはまり、新宿のキャバクラのホステスに入れあげていた。

当然のことながら給料では間に合わず、知り合いの金融業者に信用組合では融資出来ない客を紹介して、手数料をもらっていた。

これは組合法では禁止条項だが、女に狂った塩田は、妻の雅美には内緒で危ない橋を渡って稼いだ金をキャバクラにせっせと運んでいたのである。

本来が甘い男で、結局目当ての元スチュワーデスという触れ込みのホステス淳子にも金の切れ目が縁の切れ目で振られてしまったが、その時には既に300万以上の借金が残った。

妻の雅美は200万以上、2人で合計500万の借金。

ひとり息子の来年の高校入試のために貯めていたわずかな預金もとっくに利息の支払いでなくなっていた。

次の内職で稼げる手数料の入金日を説明する塩田の必死のおしゃべりを私は制止した。

「もうその話はわかった。いつまでいい加減なことを言っているんだ」

自分の話が通用しないことへの不満と、不安を交えた情けなさそうな目で、塩田はおしゃべりを止めて私を見ている。

「儲かったら、という捕らぬ狸の皮算用よりも、毎月の給料の中からウチに支払いをしろ、と言っているんだ」

隣に座っている熊田が、塩田を睨んで追い打ちをかけた。

雅美はヒステリーを起こしそうに、少し大柄な体を震わせて、私と夫である塩田を交互に見ながら何か言いたそうに口を尖らせている。

この夫婦はどうなっているのか。自分たちの借りてしまった借金は、必要なのでやむを得ず借りてしまったのだと、まるで2人とも被害者のようなことばかり言っている。

二言目には、

「あれば払うのですが」

の一点張りだ。

そんな繰り返しを食堂のテーブルで、私と熊田は小一時間夫婦とやりあっていた。しかし、話し合いは堂々巡りだ。

食堂と次の間の仕切りは木の開き戸になっていて、部屋からは明かりが漏れている。息子がいるのだろう。

「それではしょうがないな。塩田さんの実家は横浜だったな。たしか、お父さんが一人でマンションに住んでいたよな。小さな部屋だけどお父さんの所有だろう。そこへ電話をして、これから一緒に行こう。お父さんに借りるか、保証をしてもらわないとな」

塩田が細い目を見開いて叫ぶように言った。

「待って下さいよ、親父は借金を作って離婚してきた妹のことで金を使ってしまって余裕はないし、もう退職していて年金暮らしですから、今更金を借りるなんて無理ですよ」

私は押さえつけるように言った。

「そんな心配はしなくていいよ。駄目かどうかは行ってみて私が決める。しかし、塩田さんは口が相当うまいな。だが、口先で騙せるのは素人だけだろう。私はプロだ。あんたのアホ話を聞いてるヒマはないよ。さあ、行こう」

私が椅子から立ち上がった。雅美がもう限界というようにヒステリックに叫んだ。

「あんた、警察を呼びましょう。これは脅迫よ。警察に電話するわ。110番、110番」

醜く顔をひきつらせて、大柄の体で立ち上がると隅に置いてある電話の方へ向かった。

「いい加減にしろよ、奥さん」

熊田が舌打ちしながら、やはり椅子から立ち上がった。

「私らがどう脅迫しているというの。貸した金を返せと言っているだけだ。さっきから大声を出しているのは塩田さん、あんたら夫婦だろう。塩田さんも内職で入る金のことばかり、ここ1か月言い訳に使っているが、そんな自分にだけ都合のいい話があるわけはないだろう。だから、給料からウチに入金するか、会社から前借りして返すかどっちかにしろよ、と言ってるんだ」

そういいながら雅美の方へ半歩進んだ。熊田の目はギラリと光って、若い頃にヤンチャをしていた時の獰猛さをみせている。

熊田の迫力に、思わず雅美は電話の前で立ち止まり、夫の方を振り向いた。

「あんた、どうするのよ」

ドングリ目をむいて大きいからだを震わせて訴えた。

「2~3日時間をください。必ず何とかします」

今夜は簡単には許してもらえないと判断して、塩田は熊田にではなく、私に媚びるように言った。

こういうところが塩田の狡いところだ。だが、今日はこの夫婦に厳しく督促をして簡単には許さない方がいいな、と私は決めていた。椅子に座り直してから塩田を睨んで重い口調で言った。

「そうはいかないだろう。もう何回そういう言い訳をしているんだ。ネオン街に借りた金をバラまいてええ格好をしていた奴が、返す時になったら被害者か。飲んで騒いでいた時のことを考えろよ。ソファにふんぞり返って、女の子たちにチヤホヤされた時には役に立った金だったんだろう?そういう役に立った金を返せと言っているんだ」

「いや、そんなに飲んでいたわけじゃないですよ。今は全然行ってないし」

塩田は雅美の手前、あわてて言い訳をした。顔に汗が滲んでいる。私は冷たく言い放った。

「今考えればアホらしいだろう、高い金利のつく金で女の子たちにご馳走して何万円も取られた挙句、金を返せないで責められている。そういう遊びに金利のつく金を使うんじゃないよ」

雅美が待ってました、とばかりに口を出した。

「そうよ、あんた。あんな淳子なんて若い女に騙されて馬鹿なんだから」

塩田は私に文句が言えないので雅美にあたった。

「うるさい!お前が最初にサラ金から借りたんじゃないか。お前こそ何に使ったんだ」

その言葉に真っ赤な顔になった雅美が、ヒステリーの絶頂のように大声をあげた。

「何よ!」

その瞬間、ガラリと木の扉が開いた。4人は一斉に開いた扉に目をやった。
畳の部屋だ。

ベランダ側に勉強机と椅子があり、電気スタンドが点いている。

隣室の騒ぎを思えば勉強どころではなかったろう。さっきまでその椅子に座っていたのがわかる。だが、今は中学3年生位の坊主頭の少年が、敷居の前に正座している。

「おじさんたち、もうお父さんとお母さんを許してやって下さい」

少年は私の目を真っすぐ見上げて、声変わり途中のかすれ声で両手をついて言った。気負いもひるみもない、真っすぐな物言いだ。

「お前は黙っていなさい。戸を閉めなさい」

塩田が慌てて怒鳴るように叫んだ。

少年は父親のことは無視して、あくまでも私を見ている。私が権限を持っていると判断したのだろう。そして、一層はっきりとした口調で言った。

「お父さん、もうこんなことをしょっちゅう聞いているのは嫌なんだ。僕は来年就職する。高校には行かないよ」

「何を言ってるの。馬鹿なことを言うんじゃないの」

息子はひるむことなく母親を見た。

「いいんだ。お母さん」

そして私に向き直った。

「おじさん、今夜は帰ってくれませんか。僕が来年就職したら、必ずおじさんの会社の借金は払います。責任を持って払います」

目は熱く、私を睨むというより、すがるように見つめている。何か言いそうになった塩田を私は手で制した。

「就職するのはいいが、社会に出た途端、親の借金を背負うことになる。これには高い利息がついているから、君の人生は台無しになるけど、いいの」

「いいんです。もうこんなことを続けていれば、今だって人生なんて考えられないし、僕は決めたんです。おじさんたち、お願いします、今日は帰って下さい」

少年の目に初めて涙が浮かび頬を伝って流れた。少年は手をついてみあげたままだ。何十秒かの沈黙があった。

私は静かに言った。

「わかった。君の言うことを聞いて、今夜は私達は引き上げる」

立ち上がると、熊田に目で合図をして、テーブルの上の書類のコピーをアタッシュケースに入れさせた。そして塩田に向かって念を押すように言った。

「塩田さん、あんたの色と欲に使った金、そして毎日の誠意のない小狡い言い訳と、会社をごまかして内職で稼ごうとする姑息な心が恥ずかしいだろう。息子さんの真っ白な心を見習うんだな。それと奥さん、人を責めることばかり考えて自分たちが加害者であることを忘れ、被害者のようにギャアギャアわめかないことだね。息子さんが生まれて、抱き上げた頃の奥さんの心は汚れていなかったはずだ。そこに座っている息子さんを見て思い出した方がいいよ。自分の若い頃を」

そう言ってから私達は玄関に向かった。私は靴を履くと、正座したままの少年に声をかけた。

「勉強の邪魔をしちゃってごめんよ。君のさっきの言葉と、約束に嘘がないことは分かっているけど、君はウチの保証をしなくていいよ。それと、よそのサラ金の取り立てが来ても、今日言ったようなことは絶対言うなよ。君が考えているより、大人の世界は狡くて、冷たくて、残酷かもしれないからな」

少年は涙の溜まった目で、真っすぐ見つめている。私が目の奥で微笑みかけたのを純粋な少年の目は気が付いたようだ。

林にかくれる女

朝から晩までひっきりなしに入るサラ金各社の電話攻勢、手紙やハガキによる矢のような督促、夜中に飛び込む嫌がらせの何本もの電報、自宅に貼られている赤色で書かれた脅迫めいた文面――多重債務者となってしまった平尾は、こうした攻撃にさらされていた。

もしかすると夜に朝にだれか来るのでは、という不安と恐怖の日々。

会社への出勤時も帰宅時も、外をそっと覗いて左右を確かめてから裏口から出入りするという毎日。

容赦ないサラ金各社の一斉攻撃の督促に耐えられなくなったのか、ある日ついに里子の夫の平尾は蒸発した。

妻の里子はこの2年余り、本当に夫の借金を知らなかったのか。毎日の深夜帰宅、アルコールの匂い、時にはタクシーで帰宅。そして里子に渡される生活費は減らされてきた。

夫は仕事が忙しく、会社で期待されているんだわ、と好意的に解釈して喜んでいたのか。

それとも、あなたこの頃おかしいわと問い詰めると怒鳴られてしまったのか、それともうまくかわされてしまったのか。いずれにしても、里子も何かは感じていたはずだ。

私が出会ってきた多くの妻たちは、

「おかしいとは感じていました。でも、仕事ってそんなものかと思い、最後は本当のことを知ることもこわくなってしまって」

と失った月日と、金と、愛の重さを後悔していた。

蒸発した夫に代わり、里子に突然降りかかったサラ金、カード会社、聞いたこともない名前のバーやクラブの請求書。電話、電報、督促のハガキや封書の山。

ドアを叩く男たちの怒鳴り声。私は知りません、関係ありません、と言っても、

「お前の夫が借りた金だ。その金でお前も子供も飯を食ったんだ。電気だって、ガス、水道だってみんなそうだ。関係ないわけがないだろう」

近所まで聞こえるような大声で叫ぶ。いや、中には近所に聞かせるように大声を出す者も多い。ドアには赤い文字で書かれた紙が貼ってある。

「ドロボウ、金返せ。恥ずかしくないのか、詐欺野郎」

「死ぬまで追うぞ、金返せ」

誰もいないのを確かめて早朝そっと出て、ドアの張り紙を剥がす。それ以外は外に出ず、家の中で子供を抱いて怯える毎日。

そんな状況の里子に、私は連絡をした。

なぜなら、私の会社の借用書には里子の直筆のサインと実印が押してあったのだ。当然、法的に里子と話をしなければならない。

私は里子に会ったことはない。会社の融資担当の社員が平尾に書類を渡し、平尾が家に持って帰り、里子にサインをさせたものだ。

通常は目の前でのサインが原則だが、妻は子供が小さく家を出られないとか、口の上手い平尾に乗せられたのか、または自分のやるべきことの手を抜いたということか。

いずれにしても、担当者は里子に会わずに処理をしてしまったのだろう。しかし、借用書は直筆で印鑑証明もついている。充分に有効だ。

私の電話に里子は出たが、いつまでも声は出さない。無言である。今の里子の置かれている立場を充分知っている私は、

「聞いてくれるだけで結構ですので、電話を切らないでください」

と、貸金の状況と里子のサインのことを説明した。

「現在支払いが難しいのは承知しています。ご主人がいなくなり、それどころ

でないのも承知ですが、当社もビジネスであるし、奥様の署名があるものですから、一度お会いしたいのですが」私は丁寧に伝えた。

それで少し不安が消えたのだろうか、小さな声で里子は、

「お話はわかりました」

と言った。

恐らく何もわからず信頼している夫に言われて、書類も読まずにサインしたのかも知れない。

一般的に目の前で書類を見せても、内容を読む債務者も連帯保証人もほとんどいない。

「それではここに名前を、日付を、金額を」

と指示すると、

「はい」

と言われたことを書き込んでしまう人が大半だ。それをいいことに、貸し付ける側も

「それはそういうことで」

と、わけの分からない表現で契約を終わらせる。

しかし、二十歳を過ぎた大人である。自己責任ということからも、自業自得と言わざるを得ない。

不幸中の幸いは、保証しているのは、私の会社以外にはあと一社しかないということだったが、サラ金会社を中心に連日の督促と、里子の追認の保証を求める電話と取立人の攻勢はすさまじいものであった。

「借りた金で贅沢してたんだろ、当然お前にも責任がある」

「旦那の給料の額は知っていたはずだ。おかしいとは思わなかったのか」

「とぼけるんじゃないよ、居所を知ってるんだろ、教えろよ」

大手といわれるサラ金のこういう時の態度は、笑顔の若いタレントに、まるでただであげるよ、と言わんばかりのテレビCMのイメージとなんという違いか。

大手サラ金といっても、回収の方法は他の中小サラ金や闇金とまったく大差なく、鬼のようなことばと文章が連日押し寄せてくる。

私が、

「お宅にお伺いします」

というのを遮って里子は、

「私が行きます」

と意を決したように、か細い声で答えた。普通ならこの段階で大半の女は居直り、怒ったようにガチャンと電話を切るものだが、里子は違っていた。静かに電話を置いた。

里子の好感の持てる電話の対応が何か気になっていた。待ち合わせは午後2時だった。

約束の時間が近いので、3階の窓から眺めていると里子らしい女性が時間通りに向かい側のきれいに煉瓦が敷き詰められた舗道を歩いてくる。

里子は周囲の人たちの活き活きとした表情とは1人だけ違う。センスも決して良いとはいえない。

平尾は夜ごと飲み歩いていた時にはホステスに高級なディナーをご馳走しても、妻には何も買ってやらなかったのではと思ってしまうほど質素な服装だ。

この2,3年、相当厳しい生活を送っていたのが分かる。昔持っていたバッグや指輪は、リサイクルショップか質屋にでも売ってしまったのか。

それでも銀座に出て行くのだからと、手持ちの中では一番良い物を選んで来たのだろうが、通行人の中で1人だけ場違いなのが目立ってしまう。

1人の子供を背負い、もう1人を抱いている。バッグは近所に買い物に行く程度の手提げのものだ。

私は服装や持ち物で人を判断しない。心で区別している。だが、そう思っても、里子に同情せざるを得なかった。小柄だがスタイルはかなり良い方だ。

顔もよくみると、むしろ美人といっていいだろう。

里子がセンスのいい洋服を着て高級バッグを持ち、素敵なハイヒールを履いて並木通りを歩いているのを見てみたい。男たちは振り返るに違いない。

それなのに、今、8月のうだるような暑さの中を子供を連れて汗びっしょりになり、不安そうな怯えた顔で歩いている。

人はどんな状況の元に生まれるかは選ぶことは出来ない。だが、結婚する相手は選ぶはずだ。どういう判断基準で相手を選ぶのか。

今時金で売られるわけではない。里子も自分で選んで結婚して、その男性の子供を生んだことは間違いがないのだ。

あの見栄っ張りの平尾を見破ることは若い里子には出来なかったのだろうか。平尾の甘い囁きと、楽しいディナーは彼女の目を曇らせたのか。

里子が会社に着き、女性スタッフが案内して私の待つ応接室に入って来た。
背中の男の子は1歳くらいだろうか。

眠っているようだ。抱いているのは2歳位の女の子。母親に似て可愛い顔をしている。隣の椅子に腰掛けさせられていて、意味も分からず珍しい所へ来たというように、キョロキョロと応接室の中を眺めている。

子供の年齢から考えると、この2人を生んで育てている最中に平尾は遊び歩いていたことになる。里子は1人で、夜中に2人の子供の寝顔をどんな気持ちで見ていたのだろう。

休日には平尾も子供の面倒くらいは見たのだろうか。いずれにしても、この若い妻の毎日の闘いは、最初の子供を生んだ時から始まっていたようだ。

「どうぞよかったら子供さんを降ろしてください。暑かったでしょう」
「いいえ、寝ているようですからこのままで結構です」

額の汗をハンカチで抑えながらゆっくりと答えた。

女性社員が持ってきた冷たい麦茶と少し大きめのコップに入れたジュースをテーブルに置いた。

「じゃあ、お嬢ちゃんにはジュースを」

私は女の子に笑いかけながら言った。

女の子は母親の顔を見上げていたが、母親のいいわよ、という目の合図で嬉しそうに小さな両手でコップを持つと、ゴクゴクとジュースを飲んだ。

よっぽど喉が渇いていたのだろう。コップのジュースを半分ほど飲んで落ち着いたのか、女の子が興味深そうに私の顔を見ている。

毎日早朝から夜中まで、虚栄に満ちた大人たちの汚れたやり取りに明け暮れる私には、女の子の澄んだ無欲の目は眩しかった。

この子は将来、今の母親が置かれているようなこんな立場にならなければいいが、と思いながら、私は女の子に微笑んでから里子を見て、会社の方針を丁寧に説明した。そして、現在の生活の中でいくら位の返済が出来るか尋ねた。

「いくつかパートをしていますが、子供がいるので思うようには働けません。それと、他の債権者からの督促も多く、主人のことも気がかりで、毎日が死に物狂いです。こちらへの返済をどうしたらいいのか今は分かりません。でも、今月分だけはどんなことしても今週中に送りますので、残りはしばらく時間をいただけませんか。平尾のいなくなったことは実家には何も言ってないんですが、近いうち相談をしてみるつもりです」

私はこれ以上他の会社への保証人には絶対ならないこと、債権者に対してはどう応えるべきか、などを事細かにアドバイスして、残金に関しては実家とよく相談をしてから必ず連絡をくれるよう念を押した。

エアコンの効いている部屋ですっかり汗が引いた里子は、話が済んで気分が落ち着いたのか、化粧はしていないが、生気のある表情に戻っていた。

恥ずかしそうにあいさつをしてから、女の子が残りのジュースを嬉しそうに飲み終えるのを待って、手を引いて去って行った。

2か月ほど過ぎた秋の夜、私は埼玉県の郊外にある借家に里子を訪ねた。

家は大宮の少し先、まだ周囲に雑木林の残る新興住宅地であった。夜の10時過ぎだが、電気は消えていて真っ暗だ。メーターも動いていない。

誰もいないようだ。隣の家に聞いてみた。

「夜遅く申し訳ありませんが、お隣さんは引っ越しをされたのでしょうか。家の電気メーターも動いてないようですが」

隣家の主婦が心配そうな顔つきで言う。

「ここ1か月ほどは自宅に帰っていないみたいです。水道も止まっています。東京のサラ金や、地元の金融業者が連日のように取り立てに押し掛けるので、家に帰れない様子です。子供さん2人は施設に預けたと言っていました。本人は近くの林で野宿しているようです。私も何かあったら大変と心配はしているのですが……。もしかしたら、あの林の中に隠れているのかもしれませんよ」

雑木林を指差し、半ば同情と好奇心の入り混じった話しぶりだ。私は懐中電灯を借りて里子を探すことにした。隣の主婦もついてきてくれた。

月は出ていたものの、雑木林の中は真っ暗だ。

「平尾さんの奥さんいますか」

林の中に入り、声をかけた。20メートルほど進むと突然ガサガサと音がして、意外にも

「はい」

という声が聞こえた。やはり里子は林の中にいたのだ。

銀座の会社であってから、わずか2か月しか経っていないのに、人相・風体共に前の里子とはとても思えない変わりようだ。

当時、私がつけていた業務状況報告書にはこう書かれていた。

「1メートル以内では話ができないほど臭い。ホームレスと思われても仕方がない。顔は近くのトイレで洗い、早朝に東京に向かう。朝8時から10時までの2時間は上野の食堂で皿洗い、さらに11時から午後2時までは別の食堂で下働き。夜は清掃の仕事と1日中働いている。自宅近くの林に戻るのは夜10時。これだけ働いて日給は4,500円」

こんな状態の女性を使ってくれるところがよくあったと思うが、若く美形なのが幸いしているのだろう。先日、会社で恥ずかしそうにあいさつをして帰った後、この2か月でどんなことがあったのか想像がつく。

自殺をしていなかったことだけでも幸いだ。

それにしても、秋が近づいた林の中に、佇んだまま目の前の自分の家に帰れず、周囲の家々の明かりが点いた窓を見て、ときにはよその家族の楽しそうな笑い声も聞こえてくる時、里子は何を思い、何を考えていたのだろう。もちろん、だれも来ないのを確認してから真夜中過ぎにそっと家に入ったりはしていたのだろうか。

「奥さん、家に戻りましょう。私がついていますから。万一債権者が来ても大丈夫です」

私は隣の主婦にお礼を言ってから、里子を促した。本人は動こうとしなかった。溜まっていた感情が爆発するように泣きながら、喚いた。

「死にたい、もう疲れた。死ぬ前に子供に会いたい。夫を殺してやりたい」

本当に死ぬのではと思い、私は全神経を使って説得した。

「お子さんたちのことはどうするんですか・このままだったら、あの2人の子たちは誰にも頼ることは出来ないんですよ。奥さん、家に入りましょう。そして、今後のことを考えましょう」

その時、いったん引き上げた隣の主婦が缶ジュースと菓子パン、それとおしぼりを持ってきてくれた。

「何か欲しいものがあったら言ってね。なんでも用意するから、頑張ってね」

里子の手を握り、その目は潤んでいる。

「ありがとうございます」

かすれたような、涙交じりの声が聞こえ、おしぼりとジュースとパンを抱いてやっと家に向かって歩き始めた。

私は、ボディガードのように後ろについた。里子が玄関のドアを開けて中に入り、続いて無言で家に上がった私は、1か月ほど窓も開けていない、こもったような臭いまじりの部屋の窓を開けた。スーっと秋の夜風が入って来た。

里子は

「失礼します」

と言って奥の部屋に消えた。15分ほどして戻って来た時は、清潔なシャツとスカートに着替えていた。

隣の奥さんからもらったおしぼりが役立ったようだが、水が出ないので、汗臭い匂いは少なくなったが、まだかなり残っている。

「お茶もお出しできませんで、恥ずかしいです」

里子は少し落ち着いてきたのか、2人の子供のことを話し始めた。落ち着いたのを見て私は、嫌がる里子に実家に電話をするように強く促した。

里子は下を向いて黙ってしまった。

「今、実家に電話をしてほしいというのは、ウチの貸金の話をするためではありません。ご実家と相当のことがあったことはわかりますが、2人の幼い子供さんのことを考えて、自分の意地やくやしさは捨てて下さい。それが子供を育てることでしょう。あの子たちは何も言えない。あの子たちが大人のようにしゃべることが出来たら、私と同じことを言うはずです。これからの人生の方が長いのですよ。あなたのような人がなぜこんな惨めな生活に甘んじているのですか。もう、これより下の人生はありませんよ。あの林の中で、夜中に何を考えていたんですか。もう1度やり直して、狭いひと間の部屋でもいい、電気の点く明るい部屋で2人のお子さんを両手に抱いて寝ることが出来たら、それ以上の幸せはないでしょう。実家に電話をしなさい」

私は最後の「電話をしなさい」という言葉を里子の迷いを振り切るように、重く強く言った。

里子は私の差し出した電話を恐る恐る手に取ると、唇をキュッと結んで、意を決したようにボタンを押した。実家の兄が出たようだ。

里子はうまく説明出来なかった。泣きじゃくる里子を見かねて私が電話を替わった。兄は私の話に驚きのあまり言葉もなく、ただ聞いているだけだったが、話が終わると大きなため息をついた。

「里子の兄の中村正と言います初めて話す方のうえ、お金を借りている相手に申し訳ありませんが、私がそちらに着くまで、妹の傍にいてやってくれませんか。この時間ですから1時間以内には着きます。すぐ行きますので」

兄は電話の向こうで頭を下げているのが分かるような、切羽詰まった口調で言った。

「もちろんです。事故でも起こすと大変ですから安全運転で来て下さい。私はお兄さんが着くまでいますので」

私の返事に「お願いします」と兄は電話を切った。それから1時間あまり。私は里子の話を聞くことにした。

平尾との結婚のことで父親と激しいケンカが続いたこと、平尾の男としての見栄っ張りな点と調子がよすぎる性格を父親が懸念していたことに話が及んだ。

しかし、里子は地味で頑固な父親にはない、華やかで面白い人生が待っている、と判断してしまったのだ。

「今思えば、父の言う通りでした。その父は和解する機会もなく亡くなってしまいました」

里子の頬を涙が流れた。

私は静かに頷いていた。蝋燭が短くなり消えかかったとき、車の止る音が聞こえた。バタンとドアが閉まる音がして、里子の兄が玄関に飛び込んできた。

「中村正です。本当にご迷惑をおかけしました。ありがとうございます」

正は蝋燭の中で呆然と立って兄を見ている妹に、

「里子、大丈夫か。なぜこんなになるまで何も言わなかったんだ。ばかやろう、たった2人の兄弟だろう」

そう言って妹の肩を掴んで2度、3度揺すった。

里子の細い肩が大きく揺れた。里子は必死で泣くまいと、口をギュッと結んで涙の溢れそうな目で正を見つめている。

やっと落ち着いて、正は名刺を差し出した。里子とよく似て、優しそうでハンサムな小柄な人だった。設計士をしていて、独身の33歳。実家で母親と2人で暮らしているという。

「里子、親父とは色々あったけど、今は親父も死んでしまったし、もういいだろう。俺と家に帰ろう。おふくろも心配しているし、良一君が出てしまっていない今なら、不幸中の幸いだよ。子供を連れて実家に戻りなよ。俺はまだ独り者だし、家には空いている部屋もあるんだからさ。お前の子供の顔が見たいっておふくろはいつも言っていたんだから、孫が一緒に住んでくれたら大喜びだよ」

うな垂れている妹に、元気づけるように笑顔で正は言った。

「お宅の借り入れは私が責任を持って払いますので、力を貸してくれませんか。こういうことには慣れていないものですから」

そう言ってから、少しだけでもと、正は財布を出そうとした。
「中村さん、今日は支払いは結構です。それよりどうしますか里子さん、私は正さんの言う通りにするべきだと思いますが」

里子は黙っている。

「妹は自己破産できますか」

意外なことを正が訊いてきた。

「いや、妹さんはウチともう1社しか連帯保証人になっていないはずです。その2社だけ解決すれば、それで済むはずです。だから自己破産などせず、今後、良一さんの借り入れには一切関係ないということで、他の債権者に手紙を出してはどうですか。もし、それでも請求してくるところがあれば、私が弁護士を紹介します」

「わかりました。実家の父が死んで母と私だけですから、明日にでも子供を引き取ってきて実家に住まわせます。妹は結婚を父に反対されて、駆け落ちのような形で家を出たので相談できなかったのでしょう。こいつは気がやさしいくせに頑固なところがあるんです」

「こんな時に申し訳ないのですが、ビジネスの決まりなので」

私は追認保証書を出した。

「印鑑は持っていませんが」

正は気持ちよくサインをした。私は書類をしまうと、弁護士の電話番号を教えた。私は里子を見て言った。

「本当に良かったね。こういうお兄さんと、あなたと、2人のお孫さんを待っているお母さん、そういう家族は滅多にいませんよ」

「お兄ちゃん、ごめんなさい」

里子は顔を覆った。

「いいよ。しょうがないじゃない。もう遅いから早く帰ろう。おふくろも心配してるぞ。おふくろにはあやまればいいよ。子供は明日の朝いちばんに俺の車で迎えに行こう。遅くまですみませんでした。失礼します」

私は挨拶をして玄関を出た。家の中から、ワアーッという泣き声が聞こえた。

あの兄さんなら里子を怒ったんじゃない。きっと慰めたんだろう。近くに止めてある車に向かいながら、今夜は一人で来てよかった。こんな気持ちで車の中で社員と世間話は出来ないからな、と思った。

運転席に座った途端にどっと疲れが押し寄せてきた。

エンジンをかける手を止めて窓を開け、空を見上げると満点の星がきらめいていた。周囲の闇の中から、短い命を思いっきり楽しんでいるかのような虫の音が聞こえてきた。

「二度と飢えはしない」

「風と共に去りぬ」という古い映画がある。作家はマーガレット・ミッチェルだ。南北戦争の頃の南部の大牧場の娘のはらんに満ちた生涯の物語だ。

太平洋戦争直前、日本の海軍がこの映画と、ディズニーの「ファンタジア」を見て、この時代にこんな映画を作る技術を持つアメリカと戦争をしてはならない、と言ったという話もある。

この映画には「お金」の話が頻繁に出てくる。この時代のアメリカで、こんなにお金に関わる会話が出てくるのには驚いたが、人間の本質を的確に捉えていると言えるだろう。

主人公のスカーレット・オハラが南北戦争に敗れて何もかも失い、夕闇の畑に出て空腹のあまり畑から大根を抜き、泥を落として齧る場面がある。

しかし、すぐに我に返って畑の中に立ち上がり、強く握った拳を天に突き出して叫ぶように誓う。

「神よ、私は誓う。決して負けるものか、必ず生き抜いてみせる。二度と飢えはしない。家族を守り抜き、盗みをはたらき、人を殺そうとも神にかけて誓う。二度と飢えはしない!」

映画では逆光で、タラの大地に立つ黒いシルエットのスカーレット。そこに有名なバックミュージックが流れる。

盗みや殺人は賛成できないが、大牧場の何の不自由もない我儘お嬢さんにも、戦争という歴史の混乱は情け容赦なく襲い掛かる。

そして、極限の状況に追い込まれる。

だから、私達一般人の持っている資産や貯蓄など、大きな混乱と荒々しい経済競争の中ではひとたまりもなく吹き飛ばされるかも知れない。

だからと言って、それでは何をやっても無駄だ。努力するのは馬鹿馬鹿しい、どうせ死ぬときは死ぬんだから、などと、安っぽい哲学者のようなことを言って自分を納得させてはいけない。

スカーレットが天に拳を振り上げて誓ったように、私達も心に刻まなければならない。

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