第17話 自殺ファイル パート1

サラ金新法が作られる以前は、サラ金の督促は熾烈を極め、新聞には毎日のように一家心中、行方不明等の文字が躍っていた。

私もその嵐のような時代を生き抜いていた。

だが、なぜ大勢の人々が子供まで巻き添えにして死んでいったのだろう。その子たちが生きて成長して大人になったら、素晴らしい才能を持ってスポーツに、芸術に活躍したかも知れない。

少なくとも普通の家庭を営んで、未来の国を背負う家族を作ったはずだ。

女子大生

私が独立した青山での最初の客は青山の団地の一室を住まいにして、青山通りの一本裏の通りでクリーニング店を経営していた夫婦だった。

夫妻、息子、娘の4人家族。

妻の名前は田村俊子といった。息子はクリーニング店を手伝っていたようだが、よくは分からない。いわゆる今でいうフリーターだったのかもしれない。

娘は近くのA学院大学生。小柄な美人で、私は月に一度集金に行くのが楽しみだった。

田村俊子への一回目の貸付は、店の裏側にある団地の部屋で行った。ここに4人家族は住んでいた。

俊子は明るくテキパキとした40代、夫はのんびり型で、俊子が主導権を握って店を切り盛りしているのが分かった。

夫は口数は少ないが、話をすると地区の世話役のようなことをやっていると誇らしげに語った。

当時は連帯保証人を付けるのを条件としていたので、田村俊子が債務者、夫が連帯保証人となり、5万円の貸付をした。

当時の大学卒の初任給が5万円位だったので、まあまあの金額だろう。しかし、あれだけの場所で店をやっていて、5万円位の金を借りるのは何故かという疑問も浮かばないわけではなかった。

それでも、借金をする人にはそれぞれの事情があり、人によっては借金をする癖があるということも分かって来た頃だったので、特別気にはならなかった。

独立したばかりといっても1年間勤めた会社から顧客を連れて来ていたので、すでに客数は30人以上いた。

しかし、何よりもこのクリーニング店の夫婦は青山に事務所をスタートした新規第1号のお客だった。

20代半ばの私には、”幸先がいいぞ“とビジネスへの夢が一気に開くように思われた。

だが、貸借を繰り返して1年経った頃、夫婦はいきなり蒸発した。

逃げられたと直感したので、慌てて住まいの団地に行った。子供もいたわけだし、必ず戻ってくるはずだと毎日様子を見に行っていたが、1週間ほど経った頃、クリーニング店は乗っ取られてしまった。某暴力金融会社が表札を出して占有している。

この悪の金融屋を相手に喧嘩をやろうとしても、一人でやっている駆け出しの私ではどうにもならない。

せっかくの最初の客が焦げ付き1号かとガクッときたが、諦めきれずにもう1度団地の田村の部屋を見に行った。

この住まいは公団から借りているものだから所有権はないので、金融の連中も入り込んでないはずだと思った。

後日社員に説明した通りを書く。

「夜7時頃だった。冬だったから外はもう暗いし、部屋にも灯りは点いていなかったが、諦めきれないからブザーを押してみた。

もちろん、誰も出ない。試しにドアを引いてみると開くんだよ。あれ、帰っているのかなと思ったんだ。

夫婦と息子が逃げてから、娘もまもなく行方が分からなくなったけど、近所の人からは美人の大学生は時々見かけたと聞いていたからね。

恐る恐る中に入って『田村さん』と呼んだけど返事はない。何か手がかりでもあれば、と思ってそっと靴を脱いで上がってみた。

電気を点けると近所の手前まずいからな。見つかると家宅侵入なんてことになるから、外の灯りだけを頼りに目を凝らして進んだ。

足音を忍ばせてダイニングを通り、奥の襖を開けたら、娘さんがぶら下がっていたんだ。

暗い部屋の中にダラーンとして、足とスカートが窓から差し込む外灯の灯りで見えたんだけど、まずい、と思ってすぐに襖を閉めた」

「えっ、びっくりしたでしょう、社長。それでどうしたんですか」

社員が興奮して聞いてきた。

「それが思ったより驚かなかったんだ。何故か、そうだろうな、と納得しちゃってね。しかし困った。

このまま帰っちゃおうかとも思ったけど、あとで疑われても面倒だし、当時携帯電話なんてないから応接間にあった電話から警察署に連絡したんだ。

面白いのは、なぜかハンカチを出して受話器を取って、ペンでダイヤルを回したよ。やはり、ある意味冷静じゃなかったんだろうね」

「社長、冷静すぎますよ。でも、殺してもいないのに指紋を気にするなんて映画の見過ぎじゃないないですか」

社員はからかうように言った。

「そうだな、何か悪いことをしてしまったような罪悪感というか、自分は加害者側にいるというような不思議な感覚だったな」

「それからどうしたんですか」

「うん、刑事とおまわりが来て事情を警察署で説明してくれと言われて、事実をそのまま話して終わりだったけど、なぜ無断で他人の部屋に入ったのか、いくら債権者でもやりすぎだぞってきつく注意されたね。

ドアが開いていたので心配になって中を覗いたんです。と嘘をついたんだけど、私が若いということや態度をみて問題ないと思ったんだろう。

また訊ねたいことがあったら連絡をすると言ってその夜は帰してもらえた。

10時ごろ事務所に戻り電気を点けて、狭くて窓のない殺風景な壁を見つめていたら急に寂しくなってね。とんでもない世界に足を踏み入れちゃったって思ったな。

ところが、1時間ほどして落ち着いてきたら、負けるとああなるんだ、資本主義とはこういうものなんだ、勝たなければ駄目だ、目的に向かってやるだけやってやるという方に心が向いていった。

あの事件に出会ったことで、何か腹が据わったというか、覚悟が出来たというか、そんな気がするよ」

「なぜ、クリーニング店はつぶれたんですか」

「あとで刑事に聞いたんだけど、旦那が区議会の選挙か何かに夢中になって金を使いすぎて借金を増やしたようだな。見かけより店も繁盛していなかったのかも知れない。旦那が仕事もせずに選挙活動で飛び歩いていたんじゃな」

「社長、今だったらもう少し早く行動して、娘さんを自殺させなくても済んだんじゃないですか」

「そうだな。もしかしたら自殺はさせずに済んだかもしれないね。もちろん、そう思い通りにはいかないかも知れないけど。近頃の多重債務者は200万か300万でも簡単に自己破産をするだろう。

弁護士も破産は仕事としても楽だから暗に勧めるしね。だから、今だったらあの夫婦は間違いなく自己破産しただろうね。

店はなくなるけど、団地に住んで親子4人、結構うまく生活出来たと思うよ。

だけど、あの時代は自己破産を考える客はほとんどいなかった。破産とはどういうものかという内容も知らないで、破産は死んでもやりたくないと拒否反応を持っていたよ。

まるで人間扱いされなくなるとでも思っていたのかな。弁護士も今のように破産を勧めなかった。大抵は任意に整理しようとしたからね。そういう考えの方がまともだと思うけど」

社員がため息をついた。

「時代によっては助かる命も助からないんですね」

怒ったような言い方をした。

私は暗い空を見上げた。あの夜も団地の空を見上げた。やけに空は低くて暗かった。

あの娘さんは生きていれば40歳くらいか。今頃子供が2人位いて幸せになっていただろうに。

集金に行くと爽やかな声で、

「お母さん、室井さん見えたわよ~」

笑顔で挨拶をしてくれたのは、私が金貸しだということも、まして親が金を借りていたなどと考えてもいなかったからか。親から突然話を聞かされた時、どう思ったのだろう。

それとも何も言わず、親だけ逃げたのだろうか。

あの時代のあの債権者の顔ぶれでは、田村夫婦も不安と恐怖の日々だっただろう。ましてビルを乗っ取った暴力金融会社は悪どいことでは名を馳せていたし、店を取られただけでは済まないと思ったのか。

それにしても兄も行方が分からず、娘1人をなぜ残して行ったのか。そして娘はなぜ1人で残ったのか。

必ず迎えに来るからお前は頑張っていなさい、とでも言われたのか。今となっては全て謎だ。

娘は全てを知ってから誰もいない部屋に戻って何日か過ごし、冬の最後の夜を迎えた時、何を考えていたのか。

大学を中退して夜の街ででも働く場所を見つけるという選択肢はなかったのか。

美形の20歳の娘だ。何をやっても生きられたと思うのに、その道を選ばなかった。いったい娘は闇の中で何を見たのだろう。娘の明るい笑顔を昨日のことのように思い出した。

5時間後の自殺

私は高田馬場店を信用組合出身の大村(32歳)に任せていた。

その大村が大手タクシー会社の運転手だった木下康夫(38歳)と共謀して被害総額1億6千万円という横領・詐欺事件を起こした。

私がちょうど手掛け始めた不動産の地上げ物件に走り回っていた頃で、高田馬場店に目が届かなかったこともあるが、いずれにしても経営者としての油断から起きた事件といえる。私がまだ30代後半の時だった。

タクシー運転手の木下は、最初のうちは高田馬場店によく顔を出して同僚の運転手を紹介してくれる上客だった。

しかし、やがて木下は店に連れて来た同僚運転手に20万円の貸金契約が成立すると‘紹介料’として同僚から3万円を取るようになった。

また、‘半遣い方式’といって同僚運転手が店を出ると半分の10万円をすぐに外で受け取っていたケースもあったようだ。事件のシナリオはこうして出来上がっていった。

そのうちに木下は架空名義を使い始めた。

やり方は健康保険証の簡単な偽造だ。例えば、客の名前の健一を健二にするとか、生年月日が昭和28年2月1日なら、2月の前に1を書き込み12月にするといった方法である。名前を変えたり、生年月日を変えたりすると新規の客になる。

当時、パソコンには名前は漢字ではなくカタカナで入力されていた。このカタカナ入力も架空名義を容易に作らせる要因になっていた。

架空名義の貸出は店長とグルにならない限り出来ない。従業員が「おかしい」と感じても、「店長決済だ」と言われれば、もうそれに従うほかはない。

その頃、初めてのお客さんの上限貸出は30万円と決めていたが、特別に店長決済ということで、60万円までは認めることにしていた。

木下は年下の大村をバーやクラブで接待漬けにし、女まで世話をした。大村は高田馬場店の社員3名に小遣いを与えて抱き込み、店全体でばれないように計画した。

おまけに、架空名義とはいえ、毎月の利子分は新たに架空名義で作った借入金からきちんと入金していた。

これも事件の発覚を遅れさせることとなった。大村は信用組合出身だけに、このあたりの金の不正な操作に熟知していたのだろう。

私は高田馬場店をチェックするよう銀座店の店長に命じた。その前日の深夜である。大村から自宅に電話がかかって来た。

貸した金の督促に行って客と揉めることもあるので、社員からの深夜の電話には慣れていた。

その夜も

「何か、督促のトラブルか?」

と、軽い気持ちだったが、彼の声の調子がいつもとは違う。最初から

「申し訳ありません、すみません」の繰り返しだ。

もう泣き声に近い。この様子では金の使いこみかな、と直感したが、今まで信用してきた社員のことだ。

「金額はいくらなんだ」

「額は私にもわかりません。架空名義があります。詳しいことは、明日お話します」

と言ったまま大村は電話を切った。

翌日、早朝から大村と帳簿の検査をした。まず、前月の5月分から始めた。当時、高田馬場店の客は約1,000人。

目の前でどの客なのかを調べることが第一である。

実際に借りている客なのか、架空の客なのかを調べるのは、全員カードとパソコンのリストに基づいて客の1人ひとりと電話連絡で確認するしか方法がない。この作業は困難を極めた。

電話の通じない全くのユーレイ客もいたが、本人が電話に出ても、

「お宅の会社なんて名前も知らないし、借金なんかしたこともない。警察に訴えるぞ」

と騒ぎ立てる客もいる。

借金確認電話をもらった客が、実際は借りているのにこの時とばかりヤクザに相談して逃げようとする客もいた。

「お前の会社は、借金をしていない善良な市民をいじめるのか。ただでは済まさないぞ」

などと、その筋からのドスの効いた電話もあった。

どの客が正規の客であるのか、どの客が架空名義であるのか。一人ひとりペンでリストを塗りつぶしていかざるを得ない。

実際に借りているのに、確認電話に乗じてとぼけて済まそうという輩もいた。金融業者としては、相手に知らない、と言われれば引き下がるしかない。

借用書を直筆で書いた場合でも、それは自分の字ではないと言われれば、その筆跡鑑定をするのは容易ではない。

本人の他の文章、例えばハガキや書類の字をいくつか見つけて、それを裁判所で鑑定してもらうしかない。

本人が証拠を出すような協力をしてくれるわけがないし、鑑定人に支払う金も一見当たり10万円や15万円かかる。

それを100件もやったら、弁護士費用と鑑定料だけでも何千万にもなってしまうかもしれない。そのうえ、鑑定結果が

「筆跡は似ているが何とも言えない」

というようなあやふやな答えだったら元も子もない。

だからと言って、私達が借入名義人に

「お前の字だろう」

と直接責めて行ったら

「脅迫だ、恐喝だ」

と逆に私の会社が訴えられる可能性がある。

6月3日、検査をし始めたその日を最後に、大村と高田馬場店の男性社員全員が姿を消した。逃げたのである。

被害金額は1億6千万にも達していた。

今までどんなトラブルが起きても、警察に被害届を出すことはしなかったが、今回のことは一生に一度のことと、私は迷わずに刑事告訴の道を選んだ。だが、心配なこともあった。

私の会社に融資をしてくれている銀行や個人の金主が、

「社員に横領されるとは、何たる不手際だ」

ということから信用問題になり、資金を引きあげるかもしれない。だが、ここは毅然として筋の通った決着をつけるべきだ。

そう決断した私は、三日目に戸塚警察署に被害届を出した。この時にお世話になった顧問弁護士の言葉は今でもはっきりと覚えている。

「刑事事件は相手に罪の償いをさせるものです。取られたお金が戻って来ることは期待しない方がいいですよ。

それと、この種の事件は被害者がいつ加害者になるかもわからない。言葉と言動は慎重にして、くれぐれもやりすぎないようにしなさい」

法律とは難しいものだ。私が大村や木下を脅かして金を回収すれば、私が脅迫罪に問われ加害者になり、相手が被害者になることもある……弁護士はこう教えてくれていた。

大村で甘い汁を吸った地元のヤクザとの闘いは大変な作業であったが、ここではこの話は省略する。

もう1人の主役、目の前の木下とはすでに1か月余りやり合っていた。

木下は居直ったり、謝ったりしながら詐欺した金額からみたら、ほんのわずかな金額を入金して誠意をみせる素振りをして、何とか刑事事件から免れようとしている。

この1か月木下の会社、そしてこのティールームで10回以上会っていた。

返済を済ませたのはトータルで300万位か。一方で私はすでに戸塚警察署に刑事告訴もしていた。

今夜も木下は少しでも入金して返済の意思があることを見せたいと思っているようだ。

木下に誠意のひとかけらもあるわけがない。示談に持ち込むか、警察に捕まった時に少しでも刑を軽くしたいだけのようだ。

私の厳しい督促に今日も20万円の現金を持って来ていた。受け取った私は、丁寧に札を数えてから、預かり書を渡し、金を内ポケットに入れた。その途端に私は木下を睨みつけて言った。

「この程度の金ではどうしようもないな。もっと持っているんだろう、全部出していけよ」

「いや、社長、これで全部だよ。今日はこれだけにして下さい。もうこれで300万位入金したでしょう。金を受け取ってから厳しくなるのはいくら何でも酷いじゃないの、勘弁してくださいよ」

何とかこの場を誤魔化そうとして、今までに入金した金額を強調した。詐取した金はいくらになっているかまったく覚えていないくせに、自分の入金した金額はしっかり覚えている。

人間とは都合のいいものだ。

「ふざけたことを言うなよ。ウチは木下さんに寄付してもらっているんじゃない。もう300万位入金したでしょう、とはどういう意味だ。

ウチが承知して貸した金じゃない。あんたが大村をうまく抱き込んで騙し取った金だ。『入金したでしょう』じゃないだろう。

それを言うなら『払わせて下さい』だ。入金したとしても威張れる話じゃないだろう。総額いくら騙し取ったのか分かっているのか。

今警察も調べているから、いずれ正確な被害金額は出るだろうが、ウチの調べでは500人余りの名義で1億6千万位あるんだ。

今までの入金なんかは前菜みたいなものだ。これから払ってもらうのが本番だろう」

木下の顔がゆがんだ。騙した金で1か月前までは運転手仲間を引き連れて、競馬場や競輪場を肩で風を切って闊歩していた男が、今ではまるで愛する家族のために借金をしてしまったかのような被害者の表情である。

ほとんどの加害者は自分のやったことの100分の1でも被害者から追及されると、今は反省しているし、金があれば返すつもりなのに、そんなに責めなくてもいいじゃないですか、と泣き言をいう。

それでも責められると、自分のやったことは棚に上げて居直るか逆恨みをする。実際、木下も加害者というより、責められるだけの被害者になったかのようだ。

私もそんな木下を見ながら考えた。木下は後悔しているのは確かだが、この男は反省をしているわけではない。

まずかったな、もう少しうまくやれば良かった、と思っている。悪いことをしたことへの反省ではなく、ばれてしまったことを悔やんでいるだけのことだ。

木下はきっとこう考えている—金貸しを20年もやっているんだ。何よりも室井は金を返して欲しいはずだ。だから、刑事事件にすれば金の回収は難しくなる。

下手をすると金は1円も戻ってこない可能性が強い。だから、俺を泳がせながら少しでも回収しようとするはずだ。

だが、室井はあっという間に刑事告訴をした。なぜだろう。“銭争”を先頭に立って生きて来た室井が金は二の次というのか。そんなわけはない。

もう1度勝負をかけてみようと思ったのか、木下は次のような台詞を吐いた。

「社長、来週俺が金を貸している仲間がいるので必ず取り立てて持ってきます。2~300万のまとまった額になりますから、それまで時間をくれませんか。大口の金はそいつから取り立てるしか当てがないんです」

私は表情を変えることなく、さっきまでのきつい目ではなく木下を静かに見つめた。それは私の闘争心が高まった証拠でもある。

今夜は誤魔化すのではなく、金を払うように木下に決心させなければならない。

「木下さん、今夜の入金だけを考えろよ。来週の話は聞かせてくれなくていい。それを決めるのはあんたじゃない。

それより、まだいくらか持っているだろう。この夜中に帰るんだからな。一文も無いってことはないだろう。

それにあんたのことだ。俺と別れたらどこかで一杯、やけ酒でもあおるつもりだろうからな」

まとまった金が入るという話にも全く関心を示さず、この点を私は鋭く突いた。動揺した木下はコーヒーカップを持ち、口までもっていったが飲まずにテーブルに戻した。

いつの間にか小刻みに震えているその手をもじもじさせながら、尻のポケットから皺だらけの1万円札を出した。3枚あった。

「もう、これっきりしか持っていないんです。これだって家の電気代やガス代の金なんです。これがないと止められちゃいますよ」

芝居でもなさそうだ。泣きそうな顔で3万円をテーブルに置いた。3万円をポケットに入れてから、私はさっきと変わらない表情で静かに威圧した。

「何言ってんだ。こんなものじゃどうにもならないだろう。しかし、金の大切さはあんたより知っているから、これは受け取っておく。

但し、いつもそうだが領収書は切らない。預かり証にしておく。あんたを許したわけじゃない。大村やあんたは悪賢い。

領収書でも渡すと、後で和解が成立していたなどと言いかねない。満額返済されないうちは、示談はあり得ないことを肝に銘じろよ」

木下は神妙な口調で

「頼みます」

と頭を下げて言った。

「社長、何とかならないかな。刑事告訴を取り下げてくれませんか。俺にも家族があるし、ガキはまだ小さいし」

私を見る目は力なく、狡さは消えていた。

「家族が大切ならこういうことをするんじゃないよ。給料で何とか暮らせたんだろう。人を騙して金を詐取して競馬・競輪・パチンコ、とやりたい放題。

いまさら家族が大切だ、はないだろう。ウチへの詐欺は2年近くやっていただろう。その間バレないように返済日にはウチへの利息は入金していたよな。

その払った利息分を差し引いても大村と分け合って使った金はひとり頭4千万くらいはあったはずだ。いくらかは家族に渡したのか。

渡しているわけはないだろうな。もうガスや電気代の心配をしているんだからな。返す金がないならしばらく刑務所で反省した方がいいんじゃないのか」

逆に私の口調は厳しくなった。木下の表情から反抗したり、居直る表情が失せた。

このあたりからが勝負だという気持ちで私も気を引き締めた。

「明日の夜、出来るだけ入金しますので、今日は何とか勘弁してください」

「明日どういうところで金が出来るんだ。さっきのまとまった金の話はあてにはならないな。今日のように細かい金じゃどうにもならないだろう。

調べてみると木下さんは、現在前の事件で執行猶予中だろう。やはり詐欺だよな。今度の事件が加わると、間違いなく実刑だな。軽くはないぞ。自分が1番よく分かっているんだろう。

取り敢えず明日、今日と同じ時間にここで会おう。その時まとまった金を用意出来なければ来なくていい。」

そう言って私は立ち上がろうとした。

「室井さん、もう1度だけ、無理だと思うけど刑事告訴は取り下げてもらえませんか。一生かかっても必ず金は返しますから」

この1か月の私との攻防戦で、見せたことのない表情で哀願してきた。

「やっと普通の人間の常識で判断してものを言うようになったようだけど、遅いんじゃないか。

大村と組んで3日とあけず、詐欺と横領を重ねて遊び歩いた2年間の間に、あんたに名前を使われて迷惑をかけられた被害者やその家族、そしてあんたの女房や子供のことを1度も考えなかったのか。

2年の間に何十回も店で私と顔を合わせたはずだ。1度でも気まずいとか、すまないとか、良心の咎めるような顔をしたことがあるか。

いつも人ヘラヘラと人をくったような態度をしていただろう。それが、わずか1か月間責められただけで急に真人間になったような顔をするんじゃないよ。

やりづらくてしょうがないな。じゃあ、明日この時間に待ってる」

私は呆気にとられたようにポカンとしている木下に言って店を出た。それから銀座の地下駐車場に向かってホテルの階段を下りた。

それから5時間後、木下は自殺した。朝8時、警察から私の会社に電話が入った。今回の事件の担当刑事からだった。

「室井さん、今朝早く木下が自殺したよ」

刑事の文句を言いたそうな声が聞こえた。そういう話に驚くことが無くなってしまった私だが、昨夜会っていて、今朝のことだ。

少し沈黙せざるを得なかった。

「そうですか。まさか自殺するとは思わなかったな。だいぶ参っているようだったが。本当に死んだんですか?逃げる口実ではないでしょうね」

「口実じゃないよ。ここに木下の死に顔の写真もある。室井さん、頭に来るのは充分わかっているけど、もう警察が動いているんだ。

これからは、他の加害者にも接触しないでくれ。昨夜、室井さんと木下が銀座のホテルの喫茶室で会っていたのは分かっているんだ。あんまりやり過ぎると室井さんたちを被害者とばかりは言えなくなるからな」

刑事の警告のような強い口調が響いてきた。

「何で死んだんですか」

「うん、車の中にホースを引き入れて、排ガス自殺をしたんだ」

「そうですか」

私は昨夜のティールームでの木下に顔を思い出した。コーヒーに手をつけず、必死で懇願してはきたが、詐欺師の木下だ。

どうせ芝居まじりでこの場を逃れるためだくらいにしか思わなかった。そういえば、最後の頼みの時の表情は確かにいつもとは違っていた。

私が店を出た後もしばらくあの席にいたのだろう。私のいなくなったテーブル席に1人残って周囲を見回す木下。窓の外には夜の銀座のネオンと人の流れ。店内の華やかなざわめき。

木下の目にはどう映っていたのか。いや、何も目に入らず何も感じていなかったのかもしれない。

のろのろと立ち上がってホテルを出て、私と同じ地下の駐車場で車に乗り、あの時間は混んでいない数寄屋橋の阪急デパートの出口を利用したに違いない。

外に出ると数寄屋橋の交差点は通ったはずだ。

ソニービル・マリオン・不二家のビルの明るさと周囲のネオンの灯りは、木下の目にはどんな光景に映ったのか。そして、銀座を離れたのだろう。

私がベッドに入って眠っていた頃に木下は死の準備をしていたのか。自殺の理由は、今回の詐欺事件が加わって実刑で5年以上は刑務所に入らざるを得ないことを悩んだためなのは確かだが、その引き金を引いたのは私との2時間余りのやり取りだったのか。

「わかりました。刑事さん気を付けます」

木下は何を考えて再び詐欺をしたのか。捕まった時の結果は分かっていたはずだ。恐らくこう考えていたのだろう。

<詐欺がバレたとしても金を取り戻したい被害者は、刑事告訴より金を回収することを優先する。

だから、毎月少しづつ返していれば、いつの間にか民事事件の金銭貸借のようになっていくだろう。

1年も返していればそのうち返さずに逃げても、返済する意思はあったということで、被害者が刑事告訴するといっても、民事事件なので警察も相手にしないだろう。

金が1番の世の中だ。まして、室井のような男は金の回収を最優先にするはずだ。大村店長も室井をそう見ていた。

金で買えないものはないんだ。運転手仲間だって俺が金をチラつかせれば付いてくる。

渋谷の街角で拾った10代の少女だって金でどうとでもなったじゃないか。俺を脅してきたチンピラだって、ちょっと金を握らせたら、『これからもよろしく、用があったらいつでも声をかけてよ』と、まるで犬っころのように懐いてきた。

木下は、自分のお粗末な人生体験から金の力を判断し、過信していた。その経験の中にあるのは卑しい欲望と、みっともない日常だけだ。そして出会ってきた連中も木下と似た者同士の男や女たちなのだ。

私はこの事件を刑事告訴した。それと並行して全力をあげて1万でも2万でも悪党から回収するのだという意志を固めた。そんなことを想像することもないまま、

「俺を告訴したら金なんか取れなくなるだけだよ。それでもいいのか、室井よ」と高をくくっていたのだろう。

しかし、私はプロだ。木下のようなしたたかな奴には、「金返せ」だけでは1円も取れないことを知っている。

今回のことはあくまでも私の油断で起こったことだ。私の自業自得と言える。たとえ1円でも回収できなくても誰も恨むことは出来ない。

私のビジネスと人生に対する責任と覚悟は、木下や大村や、それに協力し、人の弱みにつけ込んで甘い汁を吸おうとした卑しい奴らに理解できないところにある。

そのむき出しの気持ちと捨て身の闘争心が道を拓く唯一の武器だった。

金の世界の複雑さ

金の世界は複雑で深い。

その世界には信用出来る者はそうはいない。自分のことは自分で守るしかない。だから、自信過剰と見栄は命取りだ。

金融機関の借入も、融資ができますと誘われたとしても、では貸してくださいということではなく、何のために、いくら借りるかを考えて、決して余分には借りない。

「余ったら株でも、ゴルフの会員権でも買えばいいじゃないですか」

バブルの頃、銀行マンはこういうことを平気で言った。

今はまさかそんなことを言う銀行マンも少ないと思うが、もし、そんな状況になったら、真に必要な額だけを借入し、支払い能力に会った返済金額を決める。

決めたら決して変更したり、延滞などしない。

つい最近、経済通のようなことを言っている大臣が言い出しっぺで中小企業の支払い延期の法案を得意満面で通したが、これなどは真の意味での中小企業救済にならない。

債権者からみたら、決めた支払いを延期したり、ストップした企業と長い付き合いをしようとは思わないものだ。

また経済は日々動いている。支払いを長期に延長した企業はその返済がただしく返済されないうちは、新しい案件の借入はまず出来ないだろう。

正しい金銭貸借の在り方を教えることと、もっと根本で中小企業を救済支援するための知恵を絞らず、返済を猶予することを鬼の首でも取ったように言っているのを見ると、この国の金融の在り方に背筋が寒くなる思いがする。

話しを戻そう。借りた金の返済は支払い日より3日は早目に口座に入金する癖をつける。3日も入金しておくなんて金がもったいない、時は金なりじゃないのか等と、金の計算が出来るようなことを言ってはならない。

3日や4日、手元に金を置いても利益を生み出すことは出来ない。それよりも信用をつけて、もっと大きなものを手に入れることだ。

それと、他の支払いに関しても、毎月25日が支払日ならば、23日までには入金しておく癖をつけることだ。

身内の不幸とか、突発的な事故だってある。親が危篤だからといっても返済や支払いがたった1日遅れても、それなら仕方がない、などと誰も認めてはくれない。

それと、25日から月末は銀行の窓口が混雑する。2,3日早いだけで、無駄な時間を使わず社員や自分も利益につながる。仕事に時間を取れるのだ。

金の正義は約束事で成り立っているのだ。

一般社会は法律が守ってくれるが、それは問題が起きてからだ。法律や警察は先回りして動いてはくれない。協力はしてくれるが、金より先には動かない。

だから、自分で決心して出来る限りリスクを避けることだ。資本主義で闘わずして得られるものはない。

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